信州の「追分」は中山道と北国街道との分岐点
◆追分(おいわけ)
歴史は大嫌いだったけど、
今年初めて一般道で長野の追分宿を知り考えが変わりました。
・・・・・
「追分」の意味ををこの年になって知ったのでとても恥ずかしいばかりです。
調べると、幹線街道から支線街道の分岐点を言いうのだそうです。
追分は街道を行きかう人々の休憩地点でもあったったんですね。
お茶屋、そば屋、飯屋、旅館(旅籠)があったりして、栄えたそうです。
だから「追分宿」と呼ぶのかな・・
◆信州「追分宿」を調べる
「元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた。また、民謡に多く見られる追分節の発祥の地である・・・」とあります。
そば屋も繁盛したのでしょう・・・
・・・・・
※「北国街道」を「きたぐに」と思っていましたが「ほっこく」と呼ぶんですね~
◆北海道の民謡「江差追分」は信州から伝わったという説
たまたま走行中にラジオで聞いた「追分節」の話から、興味が出て調べる!
「追分節の発祥の地とされる信州小諸付近の追分節は北国街道をを通り越後に伝わり、越後追分となった。そこから船で蝦夷地に渡り、途中別の民謡と交じり、ひっ街道の「江差追分」になったとする説が定説となているようです。」と要約しました。
こんな歴史の起点が、ここにあるったのか・・・
古の時の流れを感じました。
◆浅間神社
近くに「浅間神社」がありました。あさま? せんげん?・・・
またもや歴史音痴であります~
富士浅間神社・・せんげんと読むから、ここも・
調べる!
「あさま」と読むのです。
「あさまじんじゃ」が正式名称とわかりました。
説明には
「浅間山鳴動の際、明治天皇の勅祭のあった社として有名で、本殿の建築は町内木造建築としては最古のものである。」
とあります。
そうか、浅間山の爆発に関係するのです。
近くには。芭蕉の句が石に刻まれていました。
浅間山の爆発で焼石がこの追分を覆ったのでしょう・・・
信州 中山道の関連記事のリンクです!
ブログをご覧いただき、ありがとうございました!
★にほんブログ村に参加中です★ワン・クリック頂けたら嬉しいです! ボンジョルノ号より